子どもと悪

子どもと悪 (今ここに生きる子ども)

子どもと悪 (今ここに生きる子ども)


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(以下引用)


  • 現代日本の親が子供の教育に熱心なのは良いが、何とかして「よい子」を作ろうとし、そのためには「悪の排除」をすればよいと単純に考える誤りを犯している人が多すぎる。
  • 大人が「悪」と見なしていることを敢えてするのは、大人に対する一種の宣戦布告のようなものである。「大人の言うとおりに生きているのではないぞ」という表現である。
  • 教師や親が悪を排除することによって「よい子」をつくろうと焦ると、結局は大きい悪を招き寄せることになってしまう。
  • ともかく「悪」が存在することは認め、それに対して、人間の心がどのように働くのか、そこからどんなことが生じるのかを見るべきだ、と思われる。
  • 子供の体を生かしつつなされる教育として、スポーツ教育がある。スポーツのいいところは、自分の持つ攻撃性をルールによって守られながら出せることである。しかも、それをフルに出そうとすると、相当な練習が必要になってきて、単なる暴発では効果がないことが分かってくる。そこで、自分の攻撃性をコントロールすることも自然に学ぶことが出来る。
  • 「金持ち」は自分の体を使わないようする。つまり、身体性と切れていくのだ。
  • 「ルールを破ってはいけない」というふうに、われわれはすぐに言うことはない。まず、その子がルールを破ってでも勝とうとする意欲を出してきたのをよしとする。と言っても、ルール破りをそのまま肯定する訳ではない。まず大切なことは、そのルールの破り方がどのようなのかを見て、それについて意味を考えることが必要である(中略)。いちばんわかりやすいのは、こそこそのルール破りをしているが、注意するにはまだ弱すぎるから待とうと思っていると、だんだんと子供が元気になってきて勝負も強くなって、ルールを守れるようになる場合である。こんなときはすぐに「ルール破りは悪い」と言わずに待ってよかったと思う。しかし、いつもいつもこのとおりだと思っていると失敗する。こちらが安易な気持ちでいると、子供がルール破りは許容されていると失敗されていると思い始めたり、あまりにも何もやってもいいので限界がわからなくなって、滅茶苦茶な行動を取り始めるときがある。自由と言っても、「これ以上は駄目」というしっかりした線がなくてはならない。
  • 柳田の言うように、ウソにも二種類ある。人生を面白くするためのウソと、自分の利益を守るための虚偽と。そして、後者に対しては厳しく罰しなくてはならないが、前者に対しては、笑ってすます寛容度が必要である。