大人になることのむずかしさ―青年期の問題 (子どもと教育)

大人になることのむずかしさ―青年期の問題 (子どもと教育)

大人になることのむずかしさ―青年期の問題 (子どもと教育)


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(以下、内容)



子供が大人になるということは、現代社会においては、なかなか大変なことである。



青年期には誰しも色々な「つまづき」をする。「つまづき」をしないものは青年ではない、といってもいいかもしれない。



何かを絶対的な善にしたり、絶対的な悪にしたりして行動することは簡単なことである。むしろ、善悪の相対化のなかで、その両面をよく認識し、それに正面から立ち向かっていくことによってこそ、事態が開けてくるのではなかろうか。そう考えると「つまづき」



第一に「子供が悪いのは親が悪い」と単純に信じすぎていないだろうか。現在では、しばしば親がよくても子供が悪くなることもあるし、親もよくても悪いことが生じることもあるのである。次に「家出」を悪いことと決め込んでいるが、果たして家ではそれほど悪いことであろうか。



親子の絆というものは、予想外に強いものであって、それはなかなか簡単には切れぬものである。



青年期は世界観の著しい変動を経験するときであり、このため内なるイメージの影響を強烈に受ける時期である。ここで特に注目すべきことは、母なるもののイメージである。(中略)たとえば母親にすれば「親切に」、雨が降りそうだから傘を持っていけばよいといっただけであるのに対して、子供の側からすれば、自分の行動を支配し、監視する「うるさいやつ」と感じられるのである。



彼らに悪の可能性を含めた自由度を与えつつ、彼らを信頼することをしなくてはならない。そこには危険性がつきまとうので、これは親にとって難しく考えられるかもしれない。しかし、人工的な良い子をつくってみても、結局はそのお返しとして、より強い危険性に見舞われることを知れば、子供たちの少々の悪にも耐えられるのではなかろうか。



今までは子供を束縛しすぎて失敗した、だから、これからは放任主義でいこう、などと簡単に考えても、うまくいくものではない。子供に対しては、しかるのがいいのか悪いのか。管理するのか放任するのか。このような単純な二者択一的な議論は、およそ意味がないようである。



父親もそこで率直に意見を述べ、父母と息子の間で互いに思っていたことを話し合うことができた。この時になって、子供は以前よりも自主的に行動し、両親もそれによって不安を書きたてられることもなくなったのである。



家族の対話、大人と子供の対話は、それが意味深いものである限り、何らかの意味で対決の様相を帯びる。甘い話し合いばかりではどうにもならないのである。しかし、この対決は相手に勝つことを目標としているのではなく、互いの成長のためになされていること、および、その対決の姿勢は相手に対してだけではなく、自分の内面に対しても向けられていること、に特徴を持っている。



未開社会においては、子供と大人の区別は、はっきりしており、イニシエーションという通過儀礼によって子供は大人になるのである。現代社会においては、既に述べたように子供と大人の境界は極めてあいまいであり、青年たちはどちらに属しているのか明白ではない。



子供が個人として、個性をそなえた大人になろうとする限り、そこに何らかの殺しが必要となってくる。(中略)親殺しや子殺しが象徴的に実現されないとき、そのエネルギーが爆発し、大変な事件が生じてくる。



一般にいって、援助を必要とする人は、期待がもちにくかったり、自由を許したくないとかんじられるような人である。それに対して、期待を失わず、自由を許すことにこそ意味があるのである。期待を持ち続けるためには、人間の可能性を信頼することを学ばなければならない。ほとんどの人が「あいつは駄目だ」とか、「期待をしても無駄だ」というとき、それはその人の目に見える状況のみから判断している。しかし、人間には潜在力があり可能性がある。そして、それは期待を失わずに見てくれている人との人間関係を土台として開発されてくるのである。



可能性を信頼するとか、本人のたましいのはたらきによって自ら癒されるとかいえば、いいことずくめに聞こえるが、この過程には大きい危険性が伴うことを指摘しておかなければならない。(中略)このようなぎりぎりのところに追い込まれ、援助者が苦悩するからこそ、相手の成長を助けられるので、自ら苦しまずに相手の役に立とうとするのは無視が良すぎるのである。見守ることは大変なことである。



外からの情報や押し付けによって、人間のもつうちからの情報が抑えられていると述べたが、何かを「好き」と感じるとは、内からの情報の最たるものである。ともかく、好きなことは出来る限りやるべきである。それがすぐ自分の道につながることはないにしても、先の例が示すように、そこから個性への道が開かれてくることが多い。