伊藤忠商事 代表取締役会長 丹羽宇一郎「汗出せ、知恵出せ、もっと働け!―講演録ベストセレクション」


講演録ベストセレクション 汗出せ、知恵出せ、もっと働け!

講演録ベストセレクション 汗出せ、知恵出せ、もっと働け!



経済成長率が何パーセントだとか、いろいろ話はありますが、ほとんどの方は「景気が良くなる」と言っているから、そんなに良くはならないでしょう。去年の今頃、多くの人が「後半の景気は良くなっていないのではないか」と言っていましたが、見事に外れました。だいたい意見がそろった時は外れるものです。したがって、私はそういった意見は気にもしてないし、信用もしていません。



二十世紀前半を戦争の時代とすると、後半は一転して、イノベーションの時代です。技術革新、生活革新、社会革新ということで、日本の財政、教育、外交、農業など、あらゆるものが大きな生活変化を遂げました。二十世紀後半の五十年間は、猛烈なスピードで社会が変わった次代です。そんな時代に我々は人生の大半を過ごしてきました。



1900年の日本人の数は4000万人程度、
1950年は8000万人、
2000年は1億2000万人、
2050年は8000万人(推測)
2100年は4000万人(推測)



先進国を中心に、明らかに暮らしやすくなりました。生活が良くなり、食べるものが良くなり、寿命が延びているのです。私たちは、地球上に人類が生まれて以来、もっとも恵まれた半世紀余りを生きてきたというわけです。



恵まれていたということは、数字上でもはっきり表れています。戦後10年から1973年までの18年間の経済成長率は名目で年16パーセント。現在の中国では、10パーセントとか9パーセントなどと言われていますが、日本は18年もの間、平均16パーセントという驚異的な成長を続けてきました。そして次の1974年から1990年までの16年間もなんと8パーセントの成長率です。しかし、実態はどうか。その間にバンバン借金をしてきました。それによって成長を続けてきたわけです。行政も教育も財政もすべて全部使いっぱなし、やりっぱなしでした。「日本の国はリーダーがいなくても、経済だけで生きることができた。」これはある外国人が言ったことです。そうかもしれません。借金して、その金をどんどん使って、みなで楽しく豊かな生活を送ってきた。経済が後押しして、みながその果実の甘い汁を吸ってきたわけです。乱暴な言い方ですが、政治家は誰でも良かった。誰にでも出来ました。外交は対米一辺倒で「アメリカさま」と言っていれば済みました。教育も、みんな平等に仲良くしていきましょうということで問題はなかった。



しかし、今、経済も政治も教育も、いろいろな問題が起きています。有史以来、祖先の努力の成果を我々はエンジョイしてきたわですが、そのツケが今まわってきているのです。いよいよ本格的に治療しなければならない時が来た、と感じます。たとえばその一つが農業です。この百年間で食料需要も大きく変化しました。また農業人口が5分の1に減りました。日本の農地は470万ヘクタールほどあるそうですが、広さの問題より土壌の問題、農業人口の問題のほうが重要です。いざとなれば、ゴルフ場を潰してイモを作ったら生きられる。そういう人もいますが、いきなりゴルフ場を潰して、今までゴルフをやっていた人に、イモが作れますか。土もいじったことがない。クラブしか持ったことがない人が、急にイモなんて作れません。



1973年にアメリカで大豆の輸出が禁止になったとき、私はNYに駐在していました。このとき、もうアメリカに頼っていてはだめだ、と思いました。これからは、供給源を多角化していかなければならない。ブラジルやインドネシアなどあらゆるところで農作物を作って、それを日本が輸入しないとアメリカのいいようにやられてしまう、と。(中略)日本にもっとも適しているものは何か。米です。米は絶対に譲ってはいけません。もしこれを譲ったら、日本国民は非常に細い糸でアメリカに命を委ねることになってしまいます。そういうことから言うと、やはり日本は主食である米を、どんなにコストがかかろうとも守らなければならないでしょう。農業は高くつくからやめてしまえ、などとそんなレベルの話ではありません。国民の生活を維持するために、確保しなければいけないものです。もちろん、農業に従事している人をただ保護するということではありません。国際競争力をつけなくてはいけませんから、コストを下げる努力は必要です。



イノベーションを光とするなら、二極分化と少子高齢化は影の部分といえるかもしれません。そこを、どうバランスをとって進めていくかということです。



対話能力の不足というのは、精神の衰退、心の衰退につながります。



何が幸せかは人それぞれです。少なくとも、単なる拝金主義で幸福を感じられるほど、人間も人生も単純なものではありません。



じつは知識を習得するというのは、そんなに難しいことではありません。記憶力がよければ、大学入試なんてたいしたことではないんです。しかし、本当に難しいのは「心」を育てていくことです。心の修養、すなわち倫理観、道徳です。こう言うとすぐに教育勅語と結びつけて考える人がいますが、そうではありません。人間の生き方を学ぶということです。しかし今は、倫理観や道徳といったものがどんどん衰退していきます。知識偏重型なんです。「中央大学は、今年、司法試験の合格者をたくさん出しました。だから良い大学です。」「東京大学の学生が国家公務員上級職に何百人と受かりました。だから良い大学です」果たして本当にそうだろうか。そこで学んだ人は、良い人に育つか。決してそうとはいえません。確かに一定水準以上の知識はあるかもしれない。しかし、繰り返しになりますが、問題は知識ではなく、言葉では計れない「心」なんです。「心」は何で計れるか。それは日々の行動です。生活態度です。それはペーパー試験では判定することができないものです。司法試験や国家公務員試験の合格者だけで評価するような社会になっているから、リーダー層が決して賢いとはいえない人だらけになっていくんです。しかし、一番大事なのは賢者か愚者か、それはまさに「心」にあるということです。教育は知識だけではない。それを是非皆さんに覚えて頂きたい。有名大学に入学したからといって、決して賢いわけではない。まずは、自分たちでそう謙虚に考えてほしい。中央大学の学生はほかの大学に比べて賢いのか。ただ知識があるだけです。もっとも知識があるということは、それを獲得するだけの能力はあるということでしょう。しかし、人間として賢いかどうかは、また別の話です。



働くという言葉を、私は「傍」を「楽」にすると解釈しています。



今はどういう読み方をするかというと、最初に目次をじっと見ます。著書がどういう論理構成をしているのかということをまず考えるんです。相変わらず読むのは早いですが、重要なところは線を引き、端を折って、汚く使っています。そこで「これは」という文章は必ず書き出しておきます。



報酬委員会はどうか。これは社外取締役のおかげで社長の給料がどんどん上がることになります。さきほど申し上げたように、それぞれの会社でお互いに社外取締役をやっているのが、日本の現状です。したがって、私がもしどこかの会社の社外取締役になったら、社長にこう言います。「これだけ儲かっているんですから、社長の給料をもっと上げたらどうですか。日産のゴーン氏は5000億円の利益を出しているから、10億円の給料をもらっている。あなたのところは1兆円でしょう。だったら、20億円をもらいなさいよ」。社長は「いえ、そんなにはもらえません」と言うでしょう。「いやいや、遠慮しないでどうですか」と報酬委員会で20億円の給料にしてしまう。社長は「ありがとうございます」と言ってもらってしまうわけです。そして今度はその社長さんに伊藤忠社外取締役をやってもらう。すると「丹羽さんに給料を上げてもらったから」ということで、そのお礼に私の給料アップに貢献してくれる。私は「ありがとう。それなら次にお返ししなきゃ」と言ってまたその社長の給料を上げる。贈答合戦です。



技術は継承していくことができますが、心は継承できません。祖父や父が立派だから息子も立派かと言えば、そんなことはありません。いつも心は生まれたときにゼロです。悪い心を取り替えようと思っても手術は出来ない。



社員の心が会社から離れる要因、これは3つあります。

  1. 一つは、人間としての尊厳を認めないことです。


まず路傍の石のように扱わない。ちゃんと人間として扱えということです。「おはよう、元気か」「子供はどうしている?」という声をかけてください。田中角栄が人使いのうまかった理由は、相手の奥さんから子供まで家族の誕生日を覚えていたことです。おそらく周囲のエリートがそういう事柄を手元に控えて知らせていたのでしょうが、そういう具合に「相手のことを気に掛けています」ということを、相手に伝えるのです。誰にも人間としての自尊心があります。それは若手であろうと新入社員であろうと同じです。すべての社員の家族構成まで覚えるのは大変ですが、せめて「おはよう」とか「元気か」と声を掛けてください。その一言で相手は存在を認めてもらっていることを実感できるのです。

  1. もう一つは、奴隷のように扱うということです。


現場を一番回っている人が現場を一番良く知っている人です。その人に権限委譲しなさい。責任は自分がとる。仕事はお前にまかせた。これは信用です。

  1. 三つ目、絶対に褒めないことです。


いつも褒めたらダメです。ときどき褒める。そうすると絶対に木に登る。褒められて木に登るのは子供だけではありません。皆さんだって木に登るんです。恥ずかしそうにしていますが、心の中では登っているのです。