夢をかなえる勉強法

夢をかなえる勉強法

夢をかなえる勉強法



マズローの階層に従えば、人間の最大幸福は「1自己実現欲求」の実現ということになる。でも、いつも思う。各人にとって実現すべき「自己(自分・自分らしさ)」とはどうやって見つければいいのか?



自己実現欲求
2尊敬欲求
3集団・所属欲求
4安全欲求
5生理的欲求



確かに、最近は「自分探し」が流行であるらしい。会社を辞めて「自分探し」をする20代・30代の社会人・OLも少なくないと聞く。



しかし、「自分」とは、会社を辞めて「自分探し」を始めることによって見つかる種類のものではないと考える。目の前にある日常から離れて、思索を深めていけば辿り着く種類のものではないと思う。



なぜなら、「自分」とは、自分が与えられた場所で、目の前にある壁に対して努力を積み重ね、人を凌ぐほどの結果を得たときの満足感によってもたらされるものである、と考えるからである。なお、どんな場所でも人は必死に生きているから、人を凌ぐほど結果を得るためには、自分も相当の努力を重ねなければならないことは言うまでもない。



また、人を凌ぐほどの努力を積み重ねるためには、それがある程度自分の好きな分野である必要がある。そして、目の前にある壁に対して努力を積み重ねても、人を凌ぐ結果を残せない場合も多い。しかし、毎回自分の限界までの努力を積み重ねていけば、自分の好きな分野や「自分がどんな分野で名前を残したいか」(By P・ドラッカー)は分かる。そうやって目の前のことを、一生懸命やりながら生きていれば、失敗を積み重ねていても、最終的には「自分」というものがおぼろげながらに見えてくるのではないかと考えている。



目の前のことに対して人を凌ぐほどの努力を積み重ねることが出来ない人間は、そして「場所」を言い訳にする人間は、どこにいても人を凌ぐほどの努力を出来ない人間である。大切なのは、目の前のことから逃げないことであり、「まずは」与えられた場所で限界まで頑張ることなのだ(僕も頭では分かっているが、それは容易ではない)。失敗・成功は問題ではない。



逆に言えば、あらかじめ僕らは「自分・自分らしさ」を持って生まれてくるわけではないのだと思う。生まれたばかりの自分は何者でもないし、一生懸命生きない限りはやっぱり何者でもないからだ。一生懸命に生きてある程度人を凌いで、そしてある程度人に評価されて、自分は何者かになるのだ。だから「自分は何者なんだ?」との問いは無意味ですらある。



本文の中に「自分は何者であり、何のために生まれてきたのか?勉強するということは、そうした分からないことを知り、根源的な不安から自由になることではなかろうか」という記載があった。



まさにそのとおりだと思います。僕はある程度一生懸命は出来るけれども、不器用で効率が悪いため何事も失敗を続けている。それは結局、学びの方法を疎かにしているわけであり、一生懸命生きていないということにも通ずる。


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(以下、引用)



勉強とは、そんな狭い意味合いのものではない。勉強とは人がそれぞれ持っている能力を最大限発揮させるために行うものである。言葉を換えれば、自分は何が出来るのか、何に向いているのか、いわば自分のミッション(使命)を探すために本来行うものなのだ。自分が何のために生きているのか、その理由がわかれば、納得できる人生がおくれるのではないか。それはとても幸せなものだ。つまり勉強とは、幸せな人生を送るために行うものだと言い換えてもいい。(中略)勉強法とは、言ってみれば幸福を招くための方法論である。




自分の人生の目標は何か?それはなぜか?そのために何をしているのか?その答えを探すために、私たちは勉強をしているのである。



試験には二種類の問題しか出ない。すなわち、「自分が知っている問題」と「知らない問題」である。だが、本番では必ず知らない問題が出てくる。それまで私は知っている問題を増やそうとやっきになって勉強してきた。だが観点は逆だった。知らない問題に対する対処法を考えておけばいいのだ。自分が知らない未知の問題が出たときにどう対処するのか、実はそちらのほうが重要である。そのためには、つねに物事を表側からだけでなく、裏側からも考えてみる習慣をつけておくことが大切だろう。



人はもっと謙虚にならなければならない。謙虚であれば必ず何かが吸収できる。とくに未熟なうちは、その謙虚さが大切なのだ。



過去問に始まり、過去問に終わる。「学ぶ」という言葉は「真似る」から来ている。過去の問題を徹底的に真似して繰り返すことで、問題の形が見えてくるのだ。



私は子供自身が好きで夢中になっているものがあれば、勉強に関係なくても、どんどんやらせればいいと思っている。



息は自らの心と書く。つまり私たちは自らの心を言葉として吐き出しているのだ。